19世紀後半、五百年の長きにわたり栄華を誇った琉球王国は、時代の荒波に飲み込まれようとしていた。
薩摩藩の圧力と明治政府の台頭。その激動の渦中で数奇な運命を辿ったのが、琉球の士族であり、類まれな外交官であった牧志朝忠である。彼は単なる役人ではなく、「首里手」の祖・松村宗棍に師事した生粋の武士(ブサー)でもあった。しかし政争の具とされ、無実の罪で過酷な拷問を受けた末、薩摩へ護送される船上から冷たい海へと身を投じた。秘密を守り抜いた彼の死は、武士としての誇りを貫いた最期であった。
このような重苦しい時代の空気を肌で感じながら育った少年がいた。後に「チャン・ミー・グヮー」と呼ばれ、実戦空手の達人としてその名を轟かせる喜屋武朝徳である。1870年、首里儀保村に生まれた彼は、第二尚氏王朝の末裔という名門の血筋を引いていた。父・朝扶は、最後の国王・尚泰の書記官を務める親方であり、牧志と同じく松村宗棍から武術を学んだ文武両道の人格者であった。朝徳もまた、幼い頃から父の手ほどきを受け、琉球の「手」を受け継いでいった。
1879年の「琉球処分」により、王国は終焉を迎え、「沖縄県」が設置された。国王・尚泰は東京への移住を命じられる。その際、「朝扶とならば、東京へ行ってもよい」という王の強い信頼に応え、父・朝扶は随行者として故郷を後にした。当時9歳だった朝徳も父に伴われて上京する。12歳からの9年間を東京で過ごし、二松学舎(現在の二松学舎大学)で三島中洲から漢学を学びながら、父とともに武術の研鑽に励んだのである。
彼らの武術が単なる型稽古ではないことを証明する事件が起きた。朝徳が25歳の頃、東京・麹町にある尚家邸に、「日清戦争に協力するため寄付をしてほしい」と、怪しげな男が押し入ってきた。当時としては大金である百円を要求された喜屋武親子は、これを即座に一蹴した。すると男は突如態度を豹変させ、懐から拳銃を取り出し発砲したのである。
しかし、琉球王家ゆかりの武術を受け継ぐ二人の前では、近代兵器も無力であった。銃口を向けられながらも微塵も怯むことなく、親子は瞬く間に男を取り押さえ、警察へと引き渡した。
時代が変わり、身分を失い、刀が銃に変わろうとも、彼らの内にある「武士」の魂が消えることはなかった。琉球王国の黄昏の中で、喜屋武親子の生き様は、沖縄の「手」の真髄を雄弁に物語っていたのである。
19世紀後半、五百年の長きにわたり栄華を誇った琉球王国は、時代の荒波に飲み込まれようとしていた。
薩摩藩の圧力と明治政府の台頭。その激動の渦中で数奇な運命を辿ったのが、琉球の士族であり、類まれな外交官であった牧志朝忠である。彼は単なる役人ではなく、「首里手」の祖・松村宗棍に師事した生粋の武士(ブサー)でもあった。しかし政争の具とされ、無実の罪で過酷な拷問を受けた末、薩摩へ護送される船上から冷たい海へと身を投じた。秘密を守り抜いた彼の死は、武士としての誇りを貫いた最期であった。
このような重苦しい時代の空気を肌で感じながら育った少年がいた。後に「チャン・ミー・グヮー」と呼ばれ、実戦空手の達人としてその名を轟かせる喜屋武朝徳である。1870年、首里儀保村に生まれた彼は、第二尚氏王朝の末裔という名門の血筋を引いていた。父・朝扶は、最後の国王・尚泰の書記官を務める親方であり、牧志と同じく松村宗棍から武術を学んだ文武両道の人格者であった。朝徳もまた、幼い頃から父の手ほどきを受け、琉球の「手」を受け継いでいった。
1879年の「琉球処分」により、王国は終焉を迎え、「沖縄県」が設置された。国王・尚泰は東京への移住を命じられる。その際、「朝扶とならば、東京へ行ってもよい」という王の強い信頼に応え、父・朝扶は随行者として故郷を後にした。当時9歳だった朝徳も父に伴われて上京する。12歳からの9年間を東京で過ごし、二松学舎(現在の二松学舎大学)で三島中洲から漢学を学びながら、父とともに武術の研鑽に励んだのである。
彼らの武術が単なる型稽古ではないことを証明する事件が起きた。朝徳が25歳の頃、東京・麹町にある尚家邸に、「日清戦争に協力するため寄付をしてほしい」と、怪しげな男が押し入ってきた。当時としては大金である百円を要求された喜屋武親子は、これを即座に一蹴した。すると男は突如態度を豹変させ、懐から拳銃を取り出し発砲したのである。
しかし、琉球王家ゆかりの武術を受け継ぐ二人の前では、近代兵器も無力であった。銃口を向けられながらも微塵も怯むことなく、親子は瞬く間に男を取り押さえ、警察へと引き渡した。
時代が変わり、身分を失い、刀が銃に変わろうとも、彼らの内にある「武士」の魂が消えることはなかった。琉球王国の黄昏の中で、喜屋武親子の生き様は、沖縄の「手」の真髄を雄弁に物語っていたのである。
19せいきこうはん、ごひゃくねんのながきにわたりえいがをほこったりゅうきゅうおうこくは、じだいのあらなみにのみこまれようとしていた。
さつまはんのあつりょくとめいじせいふのたいとう。そのげきどうのかちゅうですうきなうんめいをたどったのが、りゅうきゅうのしぞくであり、たぐいまれながいこうかんであったまきしちょうちゅうである。かれはたんなるやくにんではなく、「しゅりて」のそ・まつむらそうこんにしじしたきっすいのぶし(ブサー)でもあった。しかしせいそうのぐとされ、むじつのつみでかこくなごうもんをうけたすえ、さつまへごそうされるせんじょうからつめたいうみへとみをとうじた。ひみつをまもりぬいたかれのしは、ぶしとしてのほこりをつらぬいたさいごであった。
このようなおもくるしいじだいのくうきをはだでかんじながらそだったしょうねんがいた。のちに「チャン・ミー・グヮー」とよばれ、じっせんからてのたつじんとしてそのなをとどろかせるきゃんちょうとくである。1870ねん、しゅりぎぼむらにうまれたかれは、だいにしょうしおうちょうのまつえいというめいもんのちすじをひいていた。ちち・ちょうふは、さいごのこくおう・しょうたいのしょきかんをつとめるウェーカタであり、まきしとおなじくまつむらそうこんからぶじゅつをまなんだぶんぶりょうどうのじんかくしゃであった。ちょうとくもまた、おさないころからちちのてほどきをうけ、りゅうきゅうの「ティー」をうけついでいった。
1879ねんの「りゅうきゅうしょぶん」により、おうこくはしゅうえんをむかえ、「おきなわけん」がせっちされた。こくおう・しょうたいはとうきょうへのいじゅうをめいじられる。そのさい、「ちょうふとならば、とうきょうへいってもよい」というおうのつよいしんらいにこたえ、ちち・ちょうふはずいこうしゃとしてこきょうをあとにした。とうじ9さいだったちょうとくもちちにともなわれてじょうきょうする。12さいからの9ねんかんをとうきょうですごし、にしょうがくしゃ(げんざいのにしょうがくしゃだいがく)でみしまちゅうしゅうからかんがくをまなびながら、ちちとともにぶじゅつのけんさんにはげんだのである。
かれらのぶじゅつがたんなるかたげいこではないことをしょうめいするじけんがおきた。ちょうとくが25さいのころ、とうきょう・こうじまちにあるしょうかていに、「にっしんせんそうにきょうりょくするためきふをしてほしい」と、あやしげなおとこがおしいってきた。とうじとしてはたいきんであるひゃくえんをようきゅうされたきゃんおやこは、これをそくざにいっしゅうした。するとおとこはとつじょたいどをひょうへんさせ、ふところからけんじゅうをとりだしはっぽうしたのである。
しかし、りゅうきゅうおうけゆかりのぶじゅつをうけつぐふたりのまえでは、きんだいへいきもむりょくであった。じゅうこうをむけられながらもみじんもひるむことなく、おやこはまたたくまにおとこをとりおさえ、けいさつへとひきわたした。
じだいがかわり、みぶんをうしない、かたながじゅうにかわろうとも、かれらのうちにある「ぶし」のたましいがきえることはなかった。りゅうきゅうおうこくのたそがれのなかで、きゃんおやこのいきざまは、おきなわの「ティー」のしんずいをゆうべんにものがたっていたのである。
Dans la seconde moitié du 19e siècle, le Royaume de Ryukyu, qui s\'était enorgueilli de cinq cents ans de gloire, était sur le point d\'être englouti par les vagues tumultueuses de son époque.
La pression du domaine de Satsuma et la montée en puissance du gouvernement Meiji. C\'est dans ce tourbillon de bouleversements que Makishi Chōchū, noble de Ryukyu et diplomate exceptionnel, connut un destin tragique. Il n\'était pas un simple fonctionnaire, mais un véritable guerrier martial (bushi), ayant étudié sous la direction de Matsumura Sōkon, le fondateur du "Shuri-te". Cependant, devenu un pion dans les luttes politiques, il fut soumis à de cruelles tortures sous de fausses accusations. Finalement, à bord du navire qui le déportait vers Satsuma, il se jeta dans la mer glaciale. Sa mort, emportant ses secrets avec lui, fut la fin d\'un homme resté fidèle à sa fierté de guerrier.
C\'est en ressentant physiquement l\'atmosphère pesante de cette époque qu\'un jeune garçon grandit. C\'était Chotoku Kyan, qui serait plus tard connu sous le nom de "Chan-Mii-Gwaa" et dont le nom résonnerait comme celui d\'un maître du karaté de combat réel. Né en 1870 dans le village de Gibo à Shuri, il était issu d\'une lignée prestigieuse, descendant de la Seconde Dynastie Shō. Son père, Chōfu, était un oyakata (haut dignitaire) servant de secrétaire au dernier roi, Shō Tai. Tout comme Makishi, Chōfu était un homme de caractère excellant tant dans les arts littéraires que martiaux, ayant appris de Matsumura Sōkon. Chotoku, initié par son père dès son plus jeune âge, hérita à son tour du "Te" (Ti) de Ryukyu.
Avec la "Disposition de Ryukyu" en 1879, le royaume connut sa fin et la "Préfecture d\'Okinawa" fut établie. Le roi Shō Tai reçut l\'ordre de s\'installer à Tokyo. Répondant à la profonde confiance du roi qui avait déclaré : "S\'il s\'agit de Chōfu, j\'accepte d\'aller à Tokyo", le père quitta sa terre natale en tant qu\'accompagnateur. Chotoku, qui avait 9 ans à l\'époque, accompagna son père à la capitale. Il passa 9 ans à Tokyo à partir de l\'âge de 12 ans, étudiant la sinologie auprès de Mishima Chūshū à la Nishō Gakusha (l\'actuelle Université Nishō Gakusha) tout en perfectionnant ses arts martiaux aux côtés de son père.
Un incident vint prouver que leurs arts martiaux n\'étaient pas de simples enchaînements de formes. Lorsque Chotoku avait environ 25 ans, un homme suspect s\'introduisit dans la résidence de la famille Shō à Kōjimachi, Tokyo, exigeant "une contribution pour coopérer à la guerre sino-japonaise". Le père et le fils Kyan rejetèrent immédiatement cette demande d\'une somme de cent yens, exorbitante pour l\'époque. L\'homme changea soudainement d\'attitude, sortit un pistolet de sa veste et ouvrit le feu.
Pourtant, face à ces deux hommes héritiers des arts martiaux de la famille royale de Ryukyu, même les armes modernes étaient impuissantes. Sans montrer la moindre once de peur face au canon de l\'arme, le père et le fils maîtrisèrent l\'homme en un clin d\'œil et le livrèrent à la police.
L\'époque avait beau changer, leur statut disparaître, et les sabres laisser place aux fusils, l\'âme de "bushi" qui les habitait ne s\'éteignit jamais. Dans le crépuscule du Royaume de Ryukyu, la vie du père et du fils Kyan témoignait avec éloquence de l\'essence même du "Te" d\'Okinawa.